16歳のケイト・ハーランドさんが、女性参政権の先駆者である母ヘス ター・ハーランドさんとともに、横帆式の帆船でサンフランシスコからハワイ諸島へと旅立ったのは1898年のことだった。訪問の目的は儀礼的なものだったが、二人はリリウオカラニ女王との個人的な謁見を許されていたという。当時の彼女は、自分が25年後にハワイに移り住み、ハワイの美しい風景と人々そして文化を、彫刻や版画あるいは写真で伝える優れた芸術家になるとは夢にも思っていなかった。
成長したケイトさんは、ベイエリアの芸術コミュニティに属していた。そして、共通の友人を通じて製図家兼芸術家のジョン・メルヴィル・ケリーさんと出会う。2人は1908年に結婚したが、その翌年、ケイトさんはパーティントン美術学校に入学。人物塑像で優秀な成績を収め、全国的に有名になった。1923年、夫のジョンさんが1年契約でハワイの新興住宅地の図面を制作することになり、一家は4歳になる息子ジョン・ケリー・ジュニアさんを連れ、ホノルルに移住することを決意する。
オアフ島に到着した夫妻は、たちまち島の環境に魅了される。 一家は、急成長中の観光の中心地であるワイキキを避けレアヒ(ダイヤモンドヘッド)の東側に位置するラエ・オ・クピキピキオという静かな漁村に小さなコテージを建てた。そこでは、彼らをハナイ(ハワイ文化特有の非公式の養子)として自分の家族に迎え入れてくれたトゥトゥ・ ハーベスト(ハーベストおばさん)という年配のハワイ先住民の女性の助けを得て、一家はすぐに地元のコミュニティに溶け込めた。彼らのコテージはじきに「ハレ・アロハ」と呼ばれるようになり、ハワイアンの漁師やフラダンサー、ミュージシャン、レイ職人などが集うようになる。後にケリー夫妻がオアフ島の別のエリアやカウアイ島、ハワイ島を訪れたときも、いつもハーベストおばさんが同行してハワイの文化や伝統の奥深さを教えてくれたおかげで、一家は新しい故郷であるハワイとの絆をさらに深められたのだ。
優れた彫刻家のケイトさんは、しばしば友人や隣人を 胸像のモデルにした。
ジョンさんが地元紙「ホノルル・スター・ブリテン」のアートディレクターとして働いていた頃、ケイトさんは彼女が出会った人々や場所を記録するためにアートの制作を始める。当時、他のハオレ(外国人)には通常与えられなかった貴重な機会を得られたのは、彼女のオープンで誠実な人柄によるところが大きかった。彼女の写真には、魚を捕ったり、投網の修繕をしたり、花を糸でつなげるレイ作り、ラアウ・ラパアウ(ハワイの伝統的な薬草治療)用の植物の準備など、従来の観光客向けイ メージを超えたハワイ先住民の隣人たちの日常生活に密着した瞬間が捉えられていた。彫刻も再開したケイトさんは、コミュニティで知り合ったハワイ先住民の男性や女性のブロンズ胸像を制作して、モデル本人に贈ることもよくあったという。ケイトさんが作ったフラダンサーやレイの売り子、サーファーなどのミニチュア鋳造フィギュアは、1930年代に特に人気を博し、一家が経済的に苦しい時代を乗り切る際の助けとなる(後に、これらのミニチュアフィギュアは、海賊版が大量生産され、世界中の車のダッシュボードで見かけるキッチュな土産品のフラガールへと進化した)。ケイトさんが制作依頼を受けたパブリックアート作品は、現在も展示されているものが多く、その中には、ベセル通りの旧警察署にあるカラカウア王の大きな浅浮き彫り、ダイヤモンドヘッドの展望台にある女性飛行士アメリア・イアハートさんのブロンズ記念碑、カウアイ島にあるハワイ神話の雪の女神ポリアフに捧げられたヘイアウ(寺院)の銘板などがある。ホノルル美術館には、ハワイ先住民の青年レイラニ・ポールソンさんとジョセフ・カウア・ジュニアさんのブロンズ胸像、そしてキオモさんとジョセフ・カウア・シニアさんのブロンズ頭部像が展示されている。
今日でも、赤褐色のセコイア材の屋根板が葺かれた「ハレ・アロハ」は当時のまま残っていて、この芸術家夫妻の遺した銅版画や彫刻そして写真が数多く所蔵されている。この家には、夫妻の孫娘コリーンさんと彼女のパートナーで、「ジョン・アンド・ケイト・ケリー・エステート・コレクション」のディレクターを務めるチャ・スミスさんが住んでいる。 スミスさんは、ケリー夫妻の芸術作品の保存とアーカイブ化に退職後の人生を捧げている。彼女はこうした努力を、一家の偉業そして過小評価されがちなケイトさんの作品を世に広めることが、彼女のクレアナ (責任)だと考えていると言う。
ケイトさんの写真を頼りにジョンさんは受賞作品に取り組んだ。 また、ケイトさんがジョンさんの銅版画をコンクールに出品したことで、 ジョンさんは広く認知されることとなった。
ケリー夫妻の住居であった 「ハレ·アロハ」には、 故アーティスト夫妻の膨大 な作品が収められている。
スミスさんによると、ケリー夫妻がハワイに移住してきた時期はなにかと問題の多い時代だった。リリウオカラニ女王はその30年前に強制的に退位させられ、多くのハワイ先住民が住む場所を失う中、オアフ島では急速に進む観光業と商業活動の拡大のための開発が行われていた。「ケリー夫妻は訪れる人々を常に歓迎したことから、彼らの家はハレ・アロハと呼ばれていました」とスミスさんは語る。「多くの漁師やその家族が、彼らの作品のモデルになりました。ハワイ先住民の隣人たちは、心から一家を受け入れていたのです」
居心地の良いクラフツマン用式の家に入ると、壁にはハワイ先住民の漁師が岸壁の上に立つ写真が架けられていて、その周りにラウハラ編みの帽子がいくつか飾られている。ケイトさんが撮影したこの写真は、漁師が海に投網を投げ入れようとしている瞬間を捉えたものだ。 額装されたその写真の近くには、ジョンさんが描いた同様の漁師の 銅版画が飾られている。
スミスさんは、ケリー家の名声が続いているのはケイトさんのおかげだと語っている。ジョンさんは彼女の写真を基に数々の受賞作品を生み出した。さらに、ジョンさんが芸術家としての名声を得られたのは、彼の作品をより広めようとしたケイトさんの尽力によるところが大きい。「ケイトさんは夫の作品を宣伝するのが上手でした」とスミスさんは説明する。「彼女がジョンさんの作品を版画コンクールに出品すると、彼はほぼ毎回一等賞を受賞していました」
Kate’s photographs were often the basis for her husband’s lauded etchings, a collection of which were exhibited at the Halekulani fine art gallery in 2019.
ケイトさんのオリジナル写真を基に制作されたジョンさんの銅版画は各賞を受賞し、1930~1940年代のハワイの奥深い姿を世に知らしめた。「ケイトさんは、多くの女性にありがちな、夫の芸術のために自分の芸術を諦めるようなことはしませんでした」とスミスさんは語る。 「自然の成り行きだっただけのようです」
「ハレ・アロハ」から10キロメートル足らずにあるリリウカラニ女王の旧邸宅「ワシントンプレイス」の敷地内に1枚のブロンズ銘板がある。この銘板は、ケイトさんが制作依頼を受け1929年に完成させたもので、その40年前に10代のケイトさんを初めてハワイへ迎え入れてくれたハワイの女王を永遠に称える記念碑である。彼女の多くの作品と同様に、この銘板も彼女が「大切な故郷」と呼んだこの場所への、心からの敬意を表したものだ。