希望と試練の狭間で

「沖縄移民の父」と称えられた當山久三の交錯する遺産

20世紀後半、當山久三はハ ワイへの沖縄移民において 重要な役割を果した。
文:
ジャック・キヨナガ
モデル:
ローラ・ラ・モナカ
訳:
濱元恭子

私たちには誰しも、自分がどこから来たのかというストーリーがある。それは地政学的要因や経済的要因、そしてその他さまざまな力が複雑に絡み合いながら私たち自身と私たちが故郷と呼ぶ場所を形作っ てきたものだ。今日、ハワイで暮らす沖縄系住民は5万人を超える。その移民の歴史をたどると、ひとりの人物へと行き着く。それが、120年以上前に沖縄からハワイへ渡り、新たな未来を切り開いた青年、當山久三である。

歴史の転換期にあった1868年、當山は沖縄本島東海岸の金武(きん)の町に生まれた。琉球王国は南日本と台湾の間に連なる島々を独立した王国として1879年まで統治していた。しかし本土での明治維新後、日本政府は急速な近代化と領土拡張を目指し、沖縄を県として併合する。当時、わずか11歳だった當山は、故郷が劇的に変貌する様を目の当たりにしていた。 

「歴史における當山の立場を理解することは、日本による沖縄への差別と植民地支配の歴史を理解することでもあります」と語るのは、オアフ島を拠点に沖縄古典芸能の継承に取り組む団体 「御冠船歌舞団(ウクゥワンシンカブダン)」の共同代表を務めるノーマン・カネシロさんだ。その植民地的な支配の痕跡は、沖縄社会の隅々にまで刻まれていた。沖縄の要職に他県出身の官僚が送り込まれ、学校では沖縄の言葉が禁じられ、伝統的な暮らしも蔑まれた。本土の日本人の目には、豚を飼うことも、女性の手に施される「ハジチ」と呼ばれる入れ墨も、見下されていたのだ。 

Okinawan cultural practices such as hajichi, the tattooing of a woman’s hands, were often frowned upon by the early Japanese population in Hawai‘i. Many Okinawan women chose to cover their art when being photographed. Image courtesy of Jodie Mattos.
社会指導者だった當山久三は、移民こそが苦しい沖縄経済を活性化す る手段になると考えた。

東京で勉学に勤しんだ2年の間に、當山は故郷である沖縄の経済を改善するための理念を打ち立てた。沖縄の市民活動家だった謝花(じゃはな)昇さんとの交流で影響を受けながら、自身の独学を通じて導き出した結論は、出稼ぎ労働による沖縄経済の再生だった。沖縄の人びとが海外で働き、故郷に送金することで、急増する人口と乏しい資源にあえぐ島の経済を支え、発展へと導くというものだ。 

東京から故郷へ戻ると、當山は周囲を説得することに乗り出す。中でも奈良原繁沖縄県知事に対し、自身の構想の意義を訴え、沖縄の人びとにも本土の日本人と同じように移民の道が開かれるべきだと説いた。當山は「本土の人間が移住できるのに、なぜ沖縄の人間が移住できないのか」と問いかけた。ハワイ大学マノア校沖縄研究センターの石田正人所長は「沖縄の人びとにも、同じ自由が認められて当然なのです」と語る。 

やがて知事は渋々ながらも同意した。そして、ハワイへの移民を希望する21歳から30歳までの勇敢な若者を當山が集めた。 

沖縄からの移民第一弾である26人の若者たちは、1900年1月8日に 船でオアフ島に到着。その旅は約2週間に及んだ。
1924年までに、1万6000人以 上の人が沖縄からハワイに移 住し、新たな生活を築いた。

野心と情熱を抱いていた當山だったが、移民たちを待ち受ける過酷な現実が十分に見えていなかったようだ。1900年1月8日、オアフ島に到着した26人の青年を迎えたのは、厳しい試練と抑圧の現実だった。彼らは砂糖農園との労働契約のために、灼熱の太陽の下、容赦ない鞭に耐えながら働き続けた。さらには、同じ農園で働く本土出身の日本人労働者による差別にも苦しめられる。「移民は、さまざまな要因があって起こったものでした」と、カネシロさんは語る。「沖縄出身者は、アメリカによるハワイの植民地化の渦中に移民労働者として巻き込まれていったのです」 

ハワイ大学マノア校の沖縄研究専門司書であるリネット・テルヤさんによると、沖縄からの移民は、その話し方や服装から、1868年以来ハワイに移住していたナイチャー(本土の日本人)とは明らかに異なっていたという。「沖縄の人たちは、すでに確立していた日本人社会において新参者でした」と指摘するテルヤさん。「沖縄からの移住者は、異なる文化や習慣のせいで、恥ずかしい思いをすることもあったのです」それでも沖縄の人びとのハワイへの移住は続いた。當山自身もそのひとりとして1903年にハワイの地を踏んだ。1924年までに、その数は1万6,000人を超える。時は流れ、彼らの子孫たちは、祖先の地を遠く離れながらも、自らの沖縄人としてのアイデンティティの複雑さと向き合い続けている。「沖縄人であることがどれほど大切なのか、小さい頃からずっと聞かされてきました。でもそれが具体的に何を意味するのかは、よくわかりませんでした」とカネシロさんは話す。彼はハワイで生まれたが、祖父母はみな沖縄出身者だ。

第二次世界大戦では、内地系と沖縄系の二世たちが団結し、歴史に名を刻む「第442連隊戦闘団」に加わった。アメリカ軍史上において、最も多くの勲章を受章した同部隊の活躍により、ハワイ生まれの沖縄系と本土系日本人の間にあった隔たりは、次第に和らいでいった。「沖縄人としての自覚が変わり始めたのです」とテルヤさんは言う。「多くの人たちが、沖縄人であることを誇りに思うようになりました」。その誇りは、毎年開催される沖縄フェスティバルやリーダーシップ サミット、また州内各地の沖縄文化継承団体の設立などへと繋がっていった。
そして、その多くの活動が、今もなお當山の功績を称え続けている。

ハワイにおける沖縄系移民は5万人近くを数え、豊かなハワイの文化の重要な一部を担っている。
「ウチナーンチュ」とは沖縄の言葉で、沖縄の人々のことを意味する。

今日のハワイでは、多くの沖縄系住民にとって沖縄のルーツは誇りの根幹だ。しかし、當山の存在はそれだけでは語れない。彼の遺したものは、移民労働によって築かれた2つの植民地化された島国の歴史と深く絡み合い、単なる偉業の物語では済まされない複雑さをはらんでいる。「當山は、政治権力に立ち向かうことを恐れなかった」と石田所長は語る。彼の文書や提言、そして揺るぎない指導力は、ハワイに渡った沖縄の人びとに新たな未来への道を示した。「そういう意味で、彼は沖縄人にとって、自由そのものを象徴する存在なのです」

とはいえ、カネシロさんは強調する。「當山の功績を美化するのは簡単です。しかし、彼がどのような動機で動き、どのような時代に生きていたのか、それを冷静に見極めることが、とても重要なのです」 

Still, Kaneshiro cautions, “It’s very easy for us to romanticize the work that Toyama did. It’s important to really closely examine the motivations and the climate around how these events happened.”  Yet for the tens of thousands of Okinawan descendants born in Hawai‘i, Toyama’s impact is undeniable. “I’m grateful that he made that effort,” Teruya says. “Without him, the Okinawans probably wouldn’t have been here.”

當山久三の故郷である沖 縄の金武町と、オアフ島の ハワイ沖縄センターには、 銅像が建てられ、その功績 を称えている。

For Toyama, the man who started it all, life ended in 1910, shortly after securing a seat in the Okinawa Prefectural Assembly. His ashes were interred at Mililani Memorial Park on O‘ahu. Today, he is honored with statues in his hometown of Kin and on O‘ahu. In Kin, Toyama’s statue faces Hawai‘i, his stone eyes challenging the vast distance between.