抽象表現の静謐な深淵

自然界と故郷の島への崇高な賛辞を作品に昇華したモダニズムの巨匠、タダシ·サトウ。

Image by Chris Rohrer
文:
リンゼイ・ヴァンダル
モデル:
クリス・ローラー
訳:
松延むつみ

ホイットニー美術館やグッゲンハイム美術館、スミソニアン アメリカ美術館の壁を彼の作品が飾るようになるずっと前のこと、数多くの日系アメリカ人二世の一人として、マウイ島生まれのタダシ·サトウは1930年代にハワイで成人した。家族が守り続けてきた文化的な伝統、毎日やっていた素潜りや釣り、そして故郷であるマウイ島東部のカウパカルアの田園風景が土台となり、サトウはペン画やインク画、油彩画、モザイク画といった創作表現を生涯に亘り追求する。サトウの父は書家、祖父は自然と直観という禅思想を墨一色で描く墨絵をたしなんでいた。サトウが抽象表現主義の世界に足を踏み入れた後も、そうした文化のなかに根づくミニマリズムや精神的規律は彼の作品の根底に流れ、作品の内なる本質を引き出す指針となっていった。

ハワイ州議会議事堂の『アクエリウス(1969年)』
『ナカレレ(1996年)』 フレッド·Y·タナカ蔵
『ストーン コーラル(1967年)』 の細部。ロイ&デニス·ヤマグチ蔵


第二次世界大戦中の真珠湾攻撃後、20代前半だったサトウは日系二世の志願兵からなるアメリカ陸軍部隊第442連隊戦闘団に加わった。日本語と書道の知識を活かして、日本の地図の翻訳や複製に従事した。戦後は芸術の道へと進み、ホノルル美術館で本格的に美術を学び始める。そこでサトウは、客員教授だったランストン·クロフォードに師事する。クロフォードは、芸術界において影響力が高く、精密主義の抽象画家でありリトグラフ作家としても知られていた。1948年、クロフォードを追ってニューヨークのブルックリン美術館付属美術学校に籍を置いたサトウは、世界の美術界で急速に台頭し始めていたモダニズム運動の中心地へと足を踏み入れたのだ。グリニッジ ヴィレッジにあるニュー スクール フォー ソーシャル リサーチでは、モダニズムとポップアートの架け橋として知られる先駆的な画家、スチュアート·デイヴィスに出会い、サトウは彼からも大きな影響を受けていった。

Fascinated by the city’s urban backdrop, Sato began translating its streetscapes into abstract compositions such as his energetic Subway Seriesニューヨークという都会の風景に魅せられたサトウは、街並みを抽象的な構図の作品へと落とし込んでいった。中でも「サブウェイ
シリーズ」は、黒やグレー、白のダイナミックな陰影を駆使した作品だ。一方、度々マウイ島へも帰省し、島での幼少期を映し出すような自然を題材にした作品にも繰り返し取り組んだ。同時代の画家たちが荒々しい筆致や大胆かつコントラストの強い色彩を好む一方、サトウは静謐な雰囲気の涼しげな青緑色と落ち着いたアースカラーを使って、溶岩流や潮だまり、岩、海の景色を柔らかなタッチで描いていた。1958年には、マンハッタンのアッパーイーストサイドにあるウィラードギャラリーにて、初の個展を開催することになった。

「火山や入り江といったハワイをモチーフに描く西洋画家は当時もたくさんいましたが、サトウはそれを現代的なスタイルで表現していました」と、2022年にハワイ大学マノア校で開催されたタダシ·サト
ウ展「50番目の州におけるアトミックアブストラクション、1954-1963年」のキュレーターを務めたマイカ·ポラック氏は語る。「1950年代の批評家たちは、サトウをニューヨークの前衛絵画をめぐる議論の一端を担う画家として捉えていました。ハワイに戻った際、それほど高レベルの芸術的対話と洗練された感性をサトウはハワイにもたらしたのです」 Atomic Abstraction in the 50th State, 1954–1963, held at the University of Hawai‘i at Mānoa in 2022. “Sato was seen by critics of the 1950s as being part of the conversation around avant-garde painting in New York, and he brought that level of dialogue and sophistication to Hawai‘i when he returned.”

ハワイ州議会議事堂の『アクエリウス(1969年)』
『無題(1957年)』 ジャニス&マーク·シマムラ 蔵。
『シー アネモネ (1984年)』。ハレクラニ ファイン アート コレクショ ン蔵

1960年、サトウは移り変わりの激しいニューヨークの芸術
シーンを離れ、マウイ島に居を移し、著名な芸術家で版画家でもあったイサミ·ドイの指導の下でさらなる研鑽を積んだ。東洋と西洋の世界観が融合した抽象表現のスタイルがより深遠さを増し、青、緑、ローズ、オレンジといった鮮明な色調を使い、サトウの色彩パレットは一段と鮮やかになる。サトウは「メトカーフ シャトー」として知られるアーティスト集団のメンバーだったサトル·アベ、ブンペイ·アカジ、エドモンド·チャン、テツオ·オチクボ、ジェリー·T·オキモト、ジェームズ·パークといったハワイ出身の日系二世の抽象画家らと共に作品を展示した。彼らは、ハワイにおけるモダニズム芸術の発展に大きく貢献した戦後の芸術家集団だった。

晩年のサトウは公共の場におけるインスタレーション作品に力を注ぎ、視覚芸術をカマアイナ(地元住民)にとってより身近なものにした。彼の代表作の一つ『アクエリアス(1969年)』は、現在もハワイ州議会議事堂の吹き抜けになったアトリウムの床を飾っている。この作品の制作にあたり、サトウは約600万枚ものイタリア製硝子タイルを並べ、穏やかな海底に広がる岩を彷彿とさせる直径約11メートルの円形モザイク作品を完成させた。さらに1991年、サトウはハワイ島ヒロにある新町津波記念碑のために、光と影と海が共鳴する様子を彼ならではの柔らかなフォーカススタイルで表現した陶製モザイク作品
『サブマージド ロックス アンド ウォーター リフレクションズ』を制作した。

『ジャーニー(1955年)』プライベートコレクション
『スピリット オブ デス ウォッチング(2004年)』の細部。 フレッド·Y·タナカ蔵
『無題(1971年)』ケン&ロビン·ヒラキ蔵

今日、サトウのオリジナル作品のいくつかは、ハレクラニで常設展示されている。サトウは、陸軍入隊前にこのホテルで非常勤として働いていた。芸術家として大成した彼は、後にいくつかの委託作品を制作する。「タダシ·サトウは、ハワイの自然美を見事に抽象的な形で捉えました。そこには見る人の想像に委ねられる大きな余白がありながら、ハワイに対する愛がはっきりと見て取れます」と、ハレクラニ ギャラリーで2025年1月から6月まで開催された展覧会「リフレクションズ」でキュレーターを務めたジョイス·オカノ氏は語る。

この回顧展では、ホノルルの個人収集家から貸与されたサトウの50年分の作品が紹介され、『サブウェイ ステーション#4(1954年)』から『スピリット オブ デス ウォッチング(2004年)』に至るまでの代表作が展示された。オカノ氏はあえて『スピリット オブ デス ウォッチング』を来場者が最初に目にする場所に配置したという。「この作品は、芸術家としてのサトウの才能を深く示しています。彼を知る人々は皆、思いやりがあり謙虚で、前向きな姿勢に満ちた人だったと口を揃えて言います」とオカノ氏。

この作品は、サトウが82歳で逝去する前年に描かれたものである。地平線に沈みゆくピンク色の太陽の上縁、その下には黄色い反射光が浮かびあがっている。キャンバスの上下両方にサトウの署名があり、どちらが上なのかの判断は見る者に委ねられている。「この絵の向きを何度も変えながら、サトウがどのような視点をもっていたのか想像しようとしました」とオカノ氏は振り返る。「死とともに太陽は沈むのか、それとも死は新たな生命をもたらすのかと」