昔々、太平洋に浮かぶ島々からなるある王国に、聞得大君(きこえお おぎみ)と呼ばれる女性神官がいた。彼女は最高位の神官として、王宮においてだけでなく、この王国全体においても誰よりも尊ばれた女性で、王の霊的守護者として仕え、琉球諸島に点在する村の祝女(のろ)たちを統括していた。村人も王族も、この女性神官を神の化身であり、祖先の霊的世界と現実の物質的世界を橋渡しする存在として理解していたという。
言い伝えによると、ある日、聞得大君は誘拐され、結婚を強いられることになる。婚約者を排斥しようと心に決めた聞得大君は抜け目なく行動した。密かに、墨と数本の針を使って、しっかりとした手つきで辛抱強く、自分の手の甲に刺青を入れた。(別の言い伝えでは、侍女が手伝ったとされる)。婚礼の日、聞得大君は、重く垂れる袖の下に両手を隠していた。花嫁と花婿のために、優美な杯に注がれた酒が運ばれてくると、彼女は両手を差し出す。何も知らない花婿の目の前に刺青が露わになった。刺青の入った彼女の手を見た誘拐者が酒をこぼしてしまい、それが不吉な兆しであるとされ、婚礼の儀は直ちに中止となった。奇妙かつ奇怪な文様に穢された聞得大君は結婚にふさわしくないと王宮へ戻され、生涯をそこで暮らすことになったという。



やがて、ハジチと呼ばれるこの独特の刺青は、琉球社会に深く根付く伝統となっていく。わずかに残るハジチに関する文献によれば、この風習は女性だけのもので、すべての女性には霊的な力が宿るという琉球の信仰に沿ったものだ。その信仰にふさわしく、ハジチャーと呼ばれる彫り師の多くは女性であり、施術の時間は親密なもので、しばしば世代を超えた女性同士の交流の場にもなっていた。ハジチは、女性の人生における大切な節目である思春期や結婚そして子どもや孫の誕生を刻むものであった。両手に一揃い入った刺青は、充実した人生の証とされたという。文様の意味するところは地域によって異なり、ハジチは違った意味合いをもつ。矢であれ槍であれ、月であれ石であれ、ハジチは個々の図柄そのものよりも、全体としてどのように描き出されているのかが大切で、実際には全体的な見た目が彼女の育った村や島を示すものだった。(例えば、宮古島に残る珍しいハジチの文様は、より直線的で統一感のあまりない見た目だが、手の甲には単純な図柄が散らされている)。歳を経て、ハジチにもシワが刻まれ、アザのように色褪せてきて、女家長がすべての望みを成し遂げる頃、ハジチに残された最後の役目は、あの世で彼女を祖先と再び巡り合わせることになるという。
しかし、琉球人のアイデンティティを示していた、この大切な印は、日本の統治下において脅かされることになる。琉球王国が日本に併合された20年後の1899年、明治政府は刺青の風習を禁じる。中でも植民地下の臣民に対して禁止の遵守を強制した。琉球諸島出身の女性が、夫や兄弟そして父を追ってハワイに初めて移住してきた1905年頃には、彼女たちが守り続けていた伝統はすでに衰退していた。今日、ハワイに暮らすウチナーンチュと呼ばれる4万人以上の沖縄系の人々の中で、この風習を受け継いでいる子孫はごくわずかしかいない。
この伝統を受け継ぎ、次の世代へとつないでいる一人が、37歳のタトゥーアーティストであるビー・タンジさんだ。彼女は、ウチナーンチュ四世で、オアフ島でハジチャーとして高く評価されている。アリゾナで育ったタンジさんだが、幼い頃には、家族と一緒にオアフ島をたびたび訪れた。今は亡き祖母がゴーヤ料理を作る台所で、祖母からハワイでの移民としての幼い頃の思い出話を聞いていたという。中学生になってオアフ島に引っ越しすると、祖母に連れられてウチナーンチュクラブのピクニックに参加したり、カピオラニ公園での沖縄フェスティバルでアンダギー作りを手伝ったりした。


タンジさんがタトゥーアーティストとしてのキャリアを歩み始めて 2年ほど経った2023年頃、あるウチナーンチュの母娘がやってきて、手彫りのハジチを依頼した。当時、タンジさんは、写真でしかハジチを見たことがなかった。それは、沖縄本島の本部出身の高祖母であるナベさんが、手のひらを下にして両手を膝の上に置き、誇らしげに見せているハジチだ。この依頼者がきっかけとなり、タンジさんは平敷萌子さんの作品に興味をもった。平敷さんは、沖縄県那覇市でハジチの復興を先駆者として進める二代目のハジチャーだ。2021年1月からインスタグラムのアカウント「@hajichi_project」で、自身が手がけるハジチの記録を参考図柄や調査資料とともに発信し続けている。
同じ年の後半に入って、タンジさんは、片方の手に、初めてのハジチをチョップスティック・タトゥー・ハワイで、タンジさんと同じようにハジチャーであるキヤンナ・グロリアニ・ハマムラさんに入れてもらった。それは、いくつかの矢と糸巻きを意味するカイタマの文様だった。タンジさんと違い、ハマムラさんはルーツである琉球との強い結びつきを感じながら育ったわけではない。フィリピン系ウチナーンチュであるこのアーティストは、幼少期、自分は日本人だと思っていたという。それは、植民地化の後、現在の多くのウチナーンチュが祖先から受け継いできた心情だった。ハマムラさんにとって、ハジチを知ったこと、中でも沖縄本島の南風原出身の曽祖母であるカミさんがハジチを入れていたことは、自らのウチナーンチュのアイデンティティを取り戻す最初の一歩となった。
「私は頭の中で、日本文化と沖縄文化を同じ括りで捉えていたのです」とハマムラさんは認める。「歴史をたどることで、刺青がそのふたつの違いを教えてくれました」。2021年に、ハマムラさんはハジチャーとして初めての客の予約を受けた。タトゥーアーティストとしての経験はあったが、それは恐ろしいほど未知な世界だった。ハマムラさんは「本当に私がやってもいいの? 私がやることは正しいことなの? どこまで伝統に忠実であるべきなの?」と自問せずにはいられなかった。しかし、さらに調べていくと、ハジチの歴史が、実際の人肌への彫りとしても、紙に記された資料としても、時とともにどれほど失われたかを思い知って悲しみにとらわれた。

「(琉球の)人々に何が起こったのか、人々の胸にどんな思いが去来したのか、本当のところはわかりません」とハマムラさんは語る。「だから、私が(ハジチを)施術する時には、(依頼者に)何が正しいと感じているのか、何がしっくりくるのかを尋ねます」 こうして身につけた自信を糧に、ハマムラさんは同じショップで働くエリン・ナガミネさんにハジチの客を受け付けるように勧めた。ナガミネさんもハマムラさんと同じようにフィリピン系ウチナーンチュだ。ナガミネさんのハジチとの遭遇は、これが初めてのことではなかった。10年ほど前に、ロサンゼルスに暮らしていた頃、ウチナーンチュの美容師から知った。「ちょうどタトゥーの仕事から離れていた頃でした」とオアフ島エヴァ生まれのアーティストは語る。「この仕事が本当にやりたいことなのかどうか、わかりませんでした。でも、(私の美容師から)ハジチのことを教えてもらったら、また興味が湧いてきたのです。自分で選んだ仕事じゃないかもしれない。でも、もしかしたら、起こるべくして起こった神聖な何かなのかもしれない。刺青の歴史がこんなに重要な意味のある文化の出身だなんて、どれほどの巡り合わせなんだろうと思ったのです」
タンジさん、ハマムラさん、ナガミネさんの3人にとって、ハマムラさんの言葉を借りれば、ハジチは一種「時を超える旅」であり、琉球の祖先と彼女たちをつなぐものだという。「かつて、女性たちがハジチを施術するまでは美しくないといっていたという歌が多くあると、何かに書いてありました。今ならその気持ちがわかるような気がします」とタンジさんは語る。「私の体にはたくさんのタトゥーが入っていますが、その中でもハジチを見ると、幸せな気持ちになるんです。自分が美しいと思え、ウチナーンチュであることを誇らしく思うのです」


