己を極める

芸術家で武術の達人が、ハレクラニで内なる修養の実践

2026年春、レイ・カーブリード氏は、ハレクラニでこれまでになかったゲスト体験を届けた。
文:
ユニカ・エスカランテ
モデル:
ジョン・フック
訳:
小嵜有美

一歩、また一歩と足を進める。床の上の見えない一点の周りを円を描
いて歩く。おおよそ六歩で一周することになる。ひと巡りするたびに、日本の枯山水の砂利に熊手で砂紋を描いているような感覚をかすかに覚える。それは、今、自分を包み込んでいる瞑想のようなトランス状態をもたらしているようでさえある。

 私がいるのはハレクラニの客室で、ワイキキの熱気に満ちた喧騒からそう遠くない場所だというのに、この空間は厳かな静けさに包まれている。かつてそこにあったベッドやテレビそしてその他のアメニティがすべて取り払われている部屋は、まるで道場のような修行の場を思わせる佇まいだ。 

 床一面に敷き詰められたカーペットの上には、刈りたての芝生のような色をした畳が敷かれていた。クローゼットに続くと思われる戸口は、一対の障子の後ろに隠されている。ひとつだけ置かれた棚の上には木刀が飾られ、その木目は文玩胡桃(ぶんがんくるみ)の刻み目にも似た複雑な模様を描いている。この部屋のたったひとつの美術品は壁にかけられていた。漆黒の墨を使って一筆で描き出された完璧な円は、輝くように真っ白な紙と際立ったコントラストを生み出している。

 その作品の作者であるレイ・カーブリード氏は武術の達人であり、この部屋で私の後ろに従い、同じように円の道すじを辿っている。私たちが歩いている円が、壁にかけられている作品の中の円と呼応していることに、私は気づいた。踵を着地させ、土踏まずから足指の付け根までどのように体重移動するのか、彼は一連の滑らかな動作を示してくれる。体を前へと出し、次の一歩へとつなぐ。つま先が地面から離れる。反対の足の踵が着地する。それが、何度も何度も繰り返される

「意識を集中させるのです、心の底から没頭するのです。そうすれば、あとは無の意識がうまくやってくれます」と彼が説明してくれる。  カーブリード氏の武術稽古という視点を通して見ると、一見単純に見える「歩く」という行為が、深い意味をもつ営みとなる。それは、静寂に至る術であり、人生につきものの、避けようのない、変わりやすい動揺に立ち向かうための術でもある。彼の稽古のすべて、人生のすべてが、その原理の上に成り立ってきたのだ。 

木材、ガラス、金属が作り出す巡回展示『ポータル』は、無限と有限の関係を照らし出すことを意図している。

 グアムで10代を過ごしたカーブリード氏は、気がつけば内省ばかりしていた。それは「つらい時期だった」と彼は振り返り、「何かよりかかれるもの、指針を示してくれるツールのようなもの」を渇望していたのだという。哲学書や精神世界に関するあらゆる書物を読み、「とにかく何かをかき集めようとしていた」と語る。 

 武術の奥深い世界に足を踏み入れて、ようやく何かが心の中に根付いた。師が軽やかな所作で相手の動きをかいくぐる、その身体性そのものに何かがあったのだ。だが、それ以上に彼が興味をもったのは、根底を流れる知恵の伏流だった。「私の心の中には扉がある」と彼は考えた。「その扉が閉じているのは、私が閉じたからであってほしいと思う。開け方を知らなかったから、ではなく」

より自分らしくあればあるほど、どんな環境でも、生き生きと暮らしていくことができるのです」

レイ・カーブリード、芸術家/武道家/指導者

 武術の奥深い世界に足を踏み入れて、ようやく何かが心の中に根付いた。師が軽やかな所作で相手の動きをかいくぐる、その身体性そのものに何かがあったのだ。だが、それ以上に彼が興味をもったのは、根底を流れる知恵の伏流だった。「私の心の中には扉がある」と彼は考えた。「その扉が閉じているのは、私が閉じたからであってほしいと思う。開け方を知らなかったから、ではなく」

 1995年までに、彼はハワイに移り住み、中国の武術「八卦掌」を学び始めた。それは、天狗剣術とともに、今日までも彼の主な稽古となっている。歳月が流れ、カーブリード氏は、青年の頃に深い興味をもち、彼を戸惑わせた知恵の生き字引のような存在になっていた。師たちが、深遠な哲理をどんどん彼に授けたのだ。  彼はその教えにすっかり取り憑かれた。そして、それを道場の外へも伝えたいという衝動に駆られる。その思いは、1998年に自身の武術学校を継承したことで、一層強まった。しかし、カーブリード氏は、哲理を理解するには、何十年といわずとも、何年もの稽古が必要となることを知っていた。まだよく掴みきれていない概念を、そのまま誰かに示すのは、よくないことだ。それは、まるで本の1ページだけを渡して、丸ごと 1冊を理解するように求めるようなものだ。では、何世紀にもわたって受け継がれてきた知恵を、まだ見る目ももたない人に、どのように伝えるのか? 彼は芸術家になった。「芸術は、私が稽古で得た宝石のような教えを、より多くの人に伝え、届けるための手段なのです。私の行動や努力を、時を超えたものにするための筋道でもあります」と彼は語る。 

カーブリード氏の長時間露出による写真シリーズ『ライト・曼荼羅』が、この展示で紹介されている。
カーブリード氏の神聖な円の一つの細部。ゆっくりと意図を込めて一筆で書かれたもので、対向ページのインスタレーションにも見られる。

 私の視線は、額装されてハレクラニの壁にかけられた作品へと戻っていく。カーブリード氏が描いた八卦の伝統に則った神聖な円だ。彼の作品においては、このモチーフは何度も使われている。変化、自分自身、そして彼の言う「生命力に満ちた人生」の実現についての、さまざまな哲学を表している。「円には中央がありません。でも、それがどこにあるかは、なんとなくわかるでしょ?」と彼は、ひとつの説明として言う。「だから、私たちの内側、言葉を選んでお話ししますが、あなたの一部が円の中央なのです。つまり、あなたの視界が、あなたの周りにこの経験の円を作り出しているのです」 

 カーブリード氏は、ある種の知恵は、「体を通した教え」でしか伝えられないと信じている。私たちは、変化のもつ循環的な性質を経験するために、円を描いて歩く。彼は私に、握りしめた拳、だらっとした手首、広げた掌と、手をさまざまな形にさせて、満ち溢れた生命力の考え方を示す。我々は、潜在意識の力を考えるために、周辺視野を使う。

カーブリード氏の土台となっているのは、道教哲学に根ざした武術である八卦掌である。

 カーブリード氏は、すかさずこう付け加える。彼の系譜はまぎれもなく伝統武術に根ざしているが、彼の教えは、いかなる宗教や信仰、そして思想の流派によるものではない。彼のもとで稽古をするのに、武道への関心は必須ではない。「武道においては、いかなる一撃も命取りになるかもしれない」と彼は言う。「どのように平静でいられるのか?」

 それと同じ問いは、日常の暮らしにも当てはまるとカーブリード氏は、思い切って言う。「生と死は、例えば、請求書の支払いをしなければホームレスになるかもしれない、仕事に行かなければ食べていけなくなるかもしれない、みたいなことなのです」と彼は語る。「刀や武器ではないのです。でも、根本の前提は同じことです。より自分らしくあればあるほど、どんな環境でも、生き生きと暮らしていくことができるのです」