鮮やかなデザインに文化的魅力と歴史が詰まったアロハウェアは、単なる衣服ではなく、多文化社会のさまざまな影響を織り交ぜたハワイの物語を伝える媒体である。ハワイ先住民、タヒチ、日本、中国、フィリピンなど、多様な文化が今日のアロハウェアのスタイルやデザインの形成に寄与している。
実は、このハワイ独特のユニークなファッションは、かつてハワイ先住民が主に身にまとっていた樹皮布のカパから始まったといえる。西洋文化の影響を受ける前、ハワイ先住民はワウケ(コウゾ)を水に浸し、イエ・ククと呼ばれる木製の棒で叩いてカパを作っていた。この平らに伸ばした繊維に木の実や花、葉の染料で色や香りをつけ、複雑な模様を作り出していたのだ。ところが、ハワイが海運業者や貿易業者の間で人気の寄港地になると、人々は国際的なファッションに触れる機会が増えた。やがてインドの綿の下着、中国の絹のショール、西洋のパンタロンやベストといった東洋と西洋のファッションが、ハワイのアリイ(王族)のワードローブに取り入れられるようになった。
1820年代初頭、最初のアメリカ人宣教師の妻たちがハワイに上陸すると、女性アリイ(首長)はその魅惑的なファッションに目を留めた。興味をそそられたカラカウア・カヘイヘイマリエ女王は、宣教師の妻たちが着ていたさまざまなカットや生地のドレスを所望した。女王は大柄であったため、ドレス職人たちは、ファッショナブルでありながら女王の体型に合うカスタムドレスを仕立てる必要があることに気づく。2日後、彼らは女王に「ホロク」と呼ばれる、最初のハワイアンドレスを差し出した。このドレスは、白いキャンブリック生地を使ったヨーロッパ風のエンパイアドレスであった。
アリイたちの間で広まったこの流行は、すぐに民衆にも受け入れられた。1860年までに、カパの生産は減少し、ハワイのあらゆる社会階級の男女が公共の場で西洋の衣服を着用するようになったのだ。 エリート階級はヨーロッパから衣服を輸入し、フランス、イギリス、イタリアの女性たちの流行が変化するにつれ、ハワイの女性ファッション も進化していった。この影響はハワイアンドレスの原型であるホロク のデコルテや装飾、トレーン、カットにも及んだ。やがて、トレーンのないエレガントでタイトな日中用ドレス「ホロムー」や、丈が短くカジュアル で人気の高い「ムームー」が登場した。
20世紀に入ると、ハワイは安全かつエキゾチックな旅行先として評判が高まり、富裕層の旅行者が訪れるようになった。ワイキキの黄金色の砂浜とターコイズブルーの海に魅了され、観光客は着実に増え、長期滞在するようになった。「休暇やレジャーという言葉がハワイの売り文句になりました」と語るのは、ホノルル美術館でテキスタイルとハワイの歴史的文化財の展示を手がける学芸員のトリー・ライティラさん。「これにより人々はハワイに移住し、バカンスに出かけているような服装を求めるようになったのです」
そのようなバカンスの服装には花のモチーフがよく使われるようになり、この人気のデザインは、成長するハワイの観光業におけるホスピタリティの代名詞となった。アロハシャツというネーミングを誰が思いついたのかについては諸説あるが、この言葉を印刷物に最初に使用したとされるのは、ホノルルにあった日本人移民の仕立て屋「ムサシヤ商店」である。1935年の同店の新聞広告によると、丹精込めて作られた「アロハシャツ」がわずか95セントで販売されていた。それは、やがて世界中で愛されるファッションの到来を告げるものであった。
ウル(パンノキの実)やフラガールといったハワイらしいモチーフをシルク素材に手作業で版画したシャツは、1930年代に店頭で人気を博した。1940年代後半になると、アロハシャツの生産は手仕事のカスタムメイドから大量生産へと移行する。ハワイのテキスタイルデザイナー、アルフレッド・シャヒーンさんは、地元の衣料品業界のキーパーソンとして頭角を現した。シャヒーンさんは地元アーティストのチームを雇い、ハワイや日本そして中国の文化をモチーフにしたトロピカルなシャツやドレスをデザインさせた。これらのデザインの多くは、今でもコレクターズアイテムとして残っている。
1860年頃には、カパ(ハワイ の樹皮布)を使った衣服はほ とんど見られなくなり、多く のハワイの人々は西洋風の 衣服を身に着けるようになっ ていた。
20世紀半ばにかけて人気を博したアロハウェアは、とくに職場の 堅苦しさを取り払い、洗練された衣服に対する従来の概念を覆すファッションという地位を築く。1962年、ハワイアン・ファッション・ギルドは「Operation Liberation(解放大作戦)」と題したキャンペーンを展開し、ハワイの下院と上院の各議員に2枚のアロハシャツを送り、その快適さを知ってもらうと同時に、第50州目であるハワイの縫製産業を支援するように訴えた。この大胆なキャンペーンは、地元の製造業を活性化させるため、毎週金曜日に政府職員にアロハシャツの着用を奨励するものであった。この試みは広く受け入れられ、1966年には州がこの愛すべき毎週恒例の習慣を「アロハフライデー」として正式に認定。これがきっかけとなり、同様の風潮が「カジュアルフライデー」として全米の職場に広まることとなる。
現代のデザイナーたちは、今なおこのファッションに対して敬意を払い続けている。「アロハウェアは、『変化していないファッション 』といえるもののひとつです」というライティラさんは、生地やディテールは時代とともに進化しているが、たとえば現代のホロクにおいては、19世紀の象徴的スタンダードなスタイルがいまだに守られているのだと 教えてくれた。「伝統的なホロクドレスを作り続けているデザイナーもいますが、近年では七分袖やアシンメトリーなネックライン、オフショルダー、 パンツに合わせるタンクトップといったセパレートデザインも増えています」とライティラさんは言う。「アロハウェアは、どう着こなすかにかかっ ているのです」