ルサデル・アンダーソンにとって、糸と向き合い、機織り機で作品を創り上げる作業は特別だった。綿密にデザインを練るのが好きだったのかもしれないし、長い作業の果てに味わえる達成感がよかったのかもしれない。繊維の触感や色彩とたわむれる喜びもあっただろうし、黙々と横糸と縦糸を組んでいく作業が気に入っていたのかもしれない。とにかく、陶芸も手がけ、金属細工にも挑戦した彼女が数十年にわたって情熱を注いだのは織物で、ハワイという環境を抽象的に描いた作品の数々で、伝統的なタペストリーや現代壁画の限界を打ち破ってきた。
アンダーソンの特徴のひとつとして、展示される建物の大きさに合った作品を生み出す才能が挙げられる。1966年、彼女を一躍有名にしたのは太陽を捕える半神マウイのハワイ伝説をモチーフにした約4.5 x 2.6メートルのタペストリーで、ハワイの土地柄をみごとに表現している。ハワイ銀行のワイキキビル、現在のワイキキ・ギャラリア・タワーのために制作され、ハワイらしい色彩と素材を用いて太陽を図形的に表現したもので、バニアンの木の根やハウの繊維など身近な素材も織り込んでいる。5つのピースで構成されるこの作品を、アンダーソンは助手2人とともに400時間かけて完成させた。
彼女がハワイならではの素材を用い、共同作業で作り上げた作品は、ハワイ銀行のこのタペストリーが最初ではない。1966年当時のアンダーソンは、すでに20年にわたるタペストリー制作の経験を持ち、ハワイ在住の織物作家やアーティストの知り合いも多かった。カリフォルニア州サンノゼの出身のアンダーソンが、最初の夫クロウド・ホーランとともにハワイに移住したのは1947年、25歳のときだった。その前年にハワイ大学で織物を教えはじめたヘスター・ロビンソン教授が陶芸の授業もはじめることになり、ホーランが招聘されたのだ。当初、アンダーソンの活動の中心は陶芸だったが、織物の経験もあったことから自然にロビンソン教授の活動に惹かれていく。
1951年、アンダーソンとロビンソン教授は、当時まだ準州だったハワイの将来を支えうる産業を模索しようと準州政府が組織した産業調査諮問委員会で、織物産業の可能性を示すデモンストレーションを行っている。ヤシの葉の中肋やハオレコアといった素材を用いてテーブルマットやランプの傘を作り、一般にも公開した。1950年代のアンダーソンは地元のスタジオで織り手として働きながらハワイの手工芸の世界にどっぷり身を投じ、〈ハワイアン・クラフト・アソシエーション〉という団体も発足させる。現在では布アート関連のハワイ最大の団体のひとつである〈ハワイ手織り作家のフイ(クラブ)〉の前身、ロビンソン教授が中心になって発足した〈フイ・メア・ハナ〉の創設メンバーにも加わっていた。
1963年、アンダーソンはいずれ自分のスタジオを開こうと決意し、芸術学の修士号を取得するためにハワイ大学に戻る。フランシス・ハールによる概論 『ハワイのアーティストたち 第2巻』のなかで彼女自身が述べているように、”個人住宅、公共施設を問わず”、タペストリーの需要は高まっていた。第二次世界大戦が終わり、不動産市場も観光市場も活況を見せていた時期で、カスタムメイドのタペストリーは人気だったのだ。
1964年、修士号を取得したアンダーソンは陶芸家ルイース・C・ガンツァーとともにワイキキの小さな住宅でスタジオ兼店を開く。美しさと機能を兼ね備えた彼女の作品への依頼は次々に舞い込んだ。シェラトン・カウアイ・ホテルやロイヤル・アロハ・ホテル、カウアイ・サーフ・ホテルの壁を飾るタペストリー、アラモアナの〈ウールワース〉やハワイアン航空ワイキキオフィスのブラインドも彼女が手がけたものだ。
1967年、ハワイ州芸術委員会が、新しいハワイ州議事堂の上院と下院の演壇後ろの壁も含め、建物を飾る作品の制作を依頼すると発表した時、この分野でのアンダーソンの名声はすでに揺るぎないものになっていた。そして、下院の壁を飾る作品は彼女に任されることになるのだが、それはかつて引き受けたことのない大がかりなプロジェクトだった。
構想から制作、そして実際の設置までに数年の歳月と十数人の織り手を要した。下院に取り付けられた作品を見て、上院もアンダーソンに作品を依頼。完成した作品はそれぞれ高さ約12メートルにおよび、上院と下院の議会場の傾斜した壁にぴたりと貼りつくように設置された。真紅とオレンジ、茶色を基調に大地を表現した作品と、さまざまな青を黄土色で囲み、空と海、砂を表現した作品。いずれも自然がモチーフで、ハワイらしい色彩と幾何学模様が織りなす抽象的な図柄だ。
アンダーソンの創作活動はさらに続き、遠くタヒチのミューラルなども手がけた。 プリンス・ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ連邦ビル1階の天井から下がる布を使った11の彫刻的連作も彼女によるものだ。 建築家ウラジミール・オシポフが1970年に改修したホノルル国際空港(訳注:現ダニエル・K・イノウエ国際空港)の国際線ターミナルでも、明るい色彩で線と図形をシンプルかつ美しく描いた彼女の作品群が壁を飾った。カウアイ・コミュニティ・カレッジの壁を飾る約2 x 4メートルのタペストリーのタイトルは《ワイレレ》。ハワイ語で”跳ねる水”という意味だ。豊かな水流を幾何学的かつ抽象的に描いたこの作品。茶色と緑の四角のあいだを青と紫が流れるさまは、ロイ(訳注:タロ芋の水田)や米国ミッドウエストの農業地帯を思わせる。長い創作期間を通して、アンダーソンの作風は依頼主の要望や糸や素材の試行錯誤の結果に合わせてさまざまな変化を遂げたが、抽象的なデザイン、色と素材の多彩さ、ポリネシア文化の影響、そして彫刻的という特徴は終始変わらなかった。
彼女の大がかりな作品は複数の織り手を必要とすることが多かった。こうした大プロジェクトをハワイ在住の織り手の力だけで完成させられたのは、ひとえにハワイの芸術家コミュニティとアンダーソンのつながりの深さによるものだろう。一見、孤独な作業に思える機織の世界で、彼女はほぼ必ず助手またはほかのアーティストと共同作業で作品を作り上げてきた。”人と作業をするのは刺激があって好きなんです” 『ハワイのアーティストたち 第2巻』のなかで彼女は供べている。”作品を創造することで、何より深い満足感を得られるのです” アンダーソンは生涯を通じ、多くの織物作家に影響を与えてきた。
アンダーソンは生涯を通じ、多くの織物作家に影響を与えてきた。「ハワイの織物界で、彼女はとてつもなく重要な存在でした」そう語るのはバーバラ・オカモトさん。ハワイ大学でロビンソン教授を通じてアンダーソンの知己を得て、のちにカイムキにあったアンダーソンの店〈ルーム・オリジナルズ〉でも働いた人だ。織物が一般的にまだ芸術ではなく、ただの手芸と考えられていた当時でも、アンダーソンはまぎれもなく芸術家だった、とオカモトさんは振り返る。
アンダーソンの大規模な作品には、上下両院の議場のための一連 の有名な依頼も含まれ、制作には多くの織り手を必要とすることが 多かった。
だが、オカモトさんによれば、アンダーソン自身は芸術家としての自分の評価などあまり気にしていなかったそうだ。オカモトさんにとっては、織物仲間を励ましたり、材料費の高さを嘆き、もっと手頃に手に入ればいいのにとこぼすアンダーソンの姿のほうが印象的だ。アンダーソンの店を頻繁に訪れて材料を買い求め、おしゃべりを楽しんだというキャシー・レヴィンソンさんは回想する。「ルサデルの店はわたしたち織物作家を温かく迎え、支えてくれるムードに包まれていました」
アンダーソンの後期の作品で、現在はハワイ州文化芸術財団のコレクションとして所蔵されているもののなかに、黒い毛糸で織られ、中央に白い毛が立ち上がった長さ1メートルほどの長方形の作品がある。《803本のひげ》と題されたその作品には、彼女の飼い猫たちのひげが織り込まれている。簡潔で力強く、同時に繊細かつユーモラス。第一印象は生真面目でぶっきらぼうだが、身近な人は器が大きくて愉快な人だったというアンダーソン自身の印象にそっくりだ。
アンダーソンは愛情の深さと意志の強さ、思いつきと深い洞察を映すタペストリーの制作に数十年にわたって身を投じた。2018年の他界後も、彼女の作品群はチャイナタウンのとあるビルの2階、ぱたんぱたんと織機の音が響く〈ハワイ手織り作家のフイ〉のスタジオで、先人を偲びつつ、力を合わせて織物の未来を切り拓いていく作家たちを見守っている。