やすらぎの地の物語

安息の地が物語る、現代ハワイに生きる人びと

文:
ジャッキー・オオシロ
モデル:
ジョン・フック、ジョサイア・パターソン 写真提供=カメハメハ・スクール マウイ校

西洋との初接触以来245年、外からやってきた数多の人びとが根を下ろした結果、異文化の習慣や伝統が混ざり合い、今日のハワイ社会が形成された。多様な食べ物やお祭りに比べれば目立たないが、ハワイを故郷とした人びとが永眠する墓地もまた、太平洋の文化の中心地として進化を続けるハワイを物語っている。

カヒ・ハリア・アロハ・メモリアル

Few who pass realize that beneath Waikīkī’s Kahi Hali‘a Aloha monument are some 200 iwi kūpuna, or skeletal remains.
ワイキキのカヒ・ハリア・アロハ記念碑の下に、約200体のイヴィ・クプナ(ハワイ語で「遺骨」の意)が眠ることを知る人はほとんどいない。

カラカウア通りとカパフル通りの角に、大きな石碑が建っている。溶岩でできた広いファサードの石碑は、隣接するカピオラニ公園に溶け込んでいるように見える。しかし、そのなだらかな斜面の下に、約200体のイヴィ・クプナ(ハワイ語で「遺骨」の意)が埋葬されていることを知る人は少ない。

カヒ・ハリア・アロハ(ハワイ語で「愛しき思い出の場」の意)と名付けられた、この控えめな記念碑には、20世紀にワイキキが巨大な観光地へと発展する際、あちこちの工事現場で発掘されたハワイ原住民の遺骨が納められている。ホノルル動物園に面した交通量の多い交差点近くに建つこの記念碑は、ここで暮らし、亡くなった人びとを偲ぶ碑というだけでなく、人や慣習そして文化や地形など、時の流れの中でハワイの島々を形作ってきた目に見えない力を思い起こさせてくれる。

マノア中国人墓地

The site of Manoa Chinese Cemetery was deemed through feng shui principles to be “a haven suitable for the living as well as the dead.”
マノア中国人墓地の敷地は、風水的に「生者にも死者にもふさわしい場所」と言われている。

ハワイの砂糖キビ農園で働く外国人契約労働者の第一陣として、中国人労働者が初めてハワイに到着したのは1852年のことだった。そして、その年の後半にハワイ初の中国人墓地として設立されたのが、マノア中国人墓地として知られるリン・イー・チャン墓地だ。ハワイで最も古く、最も大きい中国系墓地であるマノア中国人墓地は、中国の伝統的な墓地建築様式と葬儀スタイルを守っているハワイ唯一の墓地である。

この墓地の創設者の一人であるラム・チン氏は、1884年までに総人口の約1/4を占めるまでに膨れあがっていた中国人コミュニティのために、風水を用いて中国人墓地建設にふさわしい土地を探したと言われている。コオラウ山脈の険しい山肌を背にしたマノア渓谷の上流に位置するマノア中国人墓地の敷地は、「死者だけでなく生者にも適した安息の地」と言われている。

この墓地では毎年春になると、故人を偲ぶ中国の伝統的な年中行事である清明節を開催する。1か月に渡る清明節の間、先祖の墓を掃除するために家族が集まり、墓地でピクニックをしながら供物を捧げるという。

伝統と歴史が染みついたこの墓地に、ハワイの大変有名な中国人たちが埋葬されているのも不思議ではない。この墓地には、作家アール・ダー・ビガーズの作品に登場する架空の探偵チャーリー・チャンのモデルと言われるチャン・アパナ氏や、生前「チャイナタウンの非公式市長」として知られていたヘンリー・アヴァ・ウォン氏などの著名人が眠っている。

バレー・オブ・ザ・テンプルズ

バレー・オブ・ザ・テンプルズは、絵のように美しい平等院によって、旅行者にも地元の人にも人気を博している。

緑豊かなコオラウ山脈の麓に位置するカネオヘのバレー・オブ・ザ・テンプルズ霊園は、風光明媚な安らぎの地として知られている。墓地を訪れる理由は故人を偲ぶためというのが一般的だが、バレー・オブ・ザ・テンプルズには絵のように美しい平等院があることから、旅行者や地元の人びとに人気の観光スポットとなっている。

この平等院は、京都市郊外の宇治市に現存する11世紀に建立された同名の仏教寺院を縮小したレプリカである。ハワイの平等院は、ハワイへの日本人移民100周年を記念して、1968年に建てられたもので、庭園は京都の著名な造園師である佐野藤右衛門氏が、念入りに設計した。この無宗派の寺院では、幸福と長寿を願う巨大な真鍮の鐘を鳴らし、線香をたき、祈りを捧げることができる。

マウナ・アラ、ハワイ王室霊廟

Thousands turn out to Mauna ‘Ala each year for the Onipa‘a Peace March, which commemorates the illegal overthrow of the Hawaiian Kingdom.
ハワイ王国の不法な転覆行為を忘れないために開催されるオニパア平和行進には、毎年何千人もの人びとがマウナ・アラに集まる。

マウナ・アラは、エマ女王とカメハメハ4世の4歳になる息子が、1862年に突然病死するという悲劇から必然的に建設に至った。悲しみに打ちひしがれた王も病に倒れ、息子の死からわずか15か月後に逝去してしまう。イオラニ宮殿の敷地内の埋葬地であるポフカイナには埋葬場所がなかったため、エマ女王とカメハメハ4世の弟で新王となったばかりのカメハメハ5世は、新しい王室霊廟の建設に熱心に取り組んだ。1864年に第一棟が完成すると、人びとは列を成して、父子をイオラニ宮殿からマウナ・アラまで運び、安置した。

1865年末に霊廟が完成すると、ポフカイナに埋葬されていた他の王族の遺骨も、カメハメハ王朝を包括する目的でマウナ・アラに移された。マウナ・アラには、ハワイの歴代君主のうち2人を除く全員が埋葬されている。

ハワイで最も神聖な場所の一つとされるマウナ・アラは、歴史上の人物が眠る霊廟というだけでなく、ハワイ王国の遺産を象徴する聖所でもある。カメハメハ・スクールとセントアンドリュース・スクールの生徒は、自分たちの通う学校の創設者である王族に敬意を表すため、毎年墓参に訪れている。ハワイの伝統芸能に揺るぎない愛情を注いだカラカウア王を讃え、フラの実践者もここを訪れる。そして、1893年に起きたハワイ王国の違法転覆を忘れないために、マウナ・アラからイオラニ宮殿までを粛々と行進するオニパア平和行進には、毎年何千人もの人びとが参加している。