ケネディ劇場の明かりが落とされたホールに、太鼓の力強い音と三味線の鋭い響きが満ちていく。舞台の幕が開くと、歌舞伎の人気演目 『弁天娘女男白浪』の登場人物たちが、正確な所作とセリフ回しで動き出した。
「歌舞伎では、全員が一体となって動き、考え、そして演じなければならないのです」と話すのは、ハワイ大学演劇・舞踊学部のジュリー・アン・イェッツィ教授。過去25年にわたり、日本の伝統芸能である歌舞伎を指導してきたイエッツィ教授によると、歌舞伎を演じる時の、集団的かつ協調的な取り組みに不可欠なのは、「一体感」なのだという。「それは、皆で呼吸を合わせるようなものだと話しています」
歌舞伎の起源は、芸能者で巫女でもあった出雲阿国が、京都の鴨川の河原で念仏のパロディを演じた1603年に遡ると考えられている。阿国と世間の除け者やはみ出し者ばかりの女性だけの一座は、他では見られない踊りのような演目で庶民を楽しませた。歌舞伎とは、 「歌」、「舞」、「伎」の3つの漢字から成る。それを動詞「傾(かぶ)く」として使う場合は、「ある方向に傾く」という意味となり、言葉自体には 「奇抜な」や「常軌を逸した」という意味もある。阿国の革新的で前衛的なスタイルがこれらすべての語源となっているのだろうと、イエッツィ教授は言う。
ハワイと歌舞伎のつながりは、19世紀後半に始まった。当時、砂糖きびやパイナップルの農園で働くため、多くの日本人移民が文化的伝統や習慣そして娯楽を携えて、続々とハワイへとやってきた。移民の子どもたちが地元の学校に溶け込むにつれ、日本語や日本の伝統芸能の授業は次第に地元の学校のカリキュラムに組み込まれるようになったのだという。
1924年、ハワイ大学の演劇部が初めて歌舞伎を上演した。演目は、河竹黙阿弥の『弁天娘女男白浪』(通称『弁天小僧』)だった。江戸時代の大阪を舞台にし、身分を隠した5人の盗賊の実話をもとにした痛快な物語である。ハワイで初めて上演された歌舞伎として記録に残っているこの公演は、日本語を母国語としない人にも楽しんでもらえるように英語で上演された。それからちょうど100年後の2024年、ハワイでの初めての歌舞伎公演に敬意を表し、また劇場の60周年も祝して、イエッツィ教授は、再び3幕から成るこの演目をハワイ大学で上演することにした。
『弁天娘女男白浪』の上演準備は、肉体的にも知能的にも、そして感情的にも厳しいものだった。稽古は秋から始まり、キャストとスタッフは週6日、一日に数時間にわたって取り組んだ。演劇学科では、日本から歌舞伎の名匠である八代目市川門之助さん、そしてその弟子の市川卯瀧さんと市川瀧昇さんを招聘し、学生たちの演技の向上のために指導を仰いだ。
本作で主役の一人、南郷力丸を演じた芸術学部の大学院生、 イザベラ・オキーフさんは、歌舞伎の巨匠による指導は、舞台の上だけでなく、舞台の外でも貴重な教訓をもたらしてくれたと話す。「門之助師匠は、一番やってはいけないことのひとつは、忘れて後戻りすること。前に進み続ける限り、それは進歩なのだと教えてくださいました」。
ケネディ劇場のテクニカルディレクターであるジャスティン・フラギアオさんにとって、個々の表現と歌舞伎の厳格な形式や枠組みとの関係を学ぶことは、とりわけ興味深いことだった。「(歌舞伎には)自由がないというのではなく、物事には一定のやり方があることを理解するだけです」とフラギアオさんは語った。歌舞伎に精通している人にとっては、ただ手を振るような単純な動作でさえ、非常に大きな意味を伝えるものなのだという。「それを正しく読み取れるかどうかのバランスを見つけることが重要です」。
オアフ島での5回の公演はすべて完売。その後、一行は地歌舞伎の伝統で知られる岐阜市の招待を受け、日本公演を行った。公演は、ぎふ清流文化プラザと歴史ある相生座で行われた。ハワイで初めて上演された英語歌舞伎の100周年を記念し、『弁天娘女男白浪』を日本の 観客と英語で共有するという一つの節目になった。各公演の終わりには、日本ならではのおひねりが舞台に降り注いだ。イエッツィ教授は、それを見た時に学生たちと共有した誇りと達成感を今でも覚えている。
ハワイに戻ったイエッツィ教授は、ハワイ大学での次の学期の準備を進めながら、歌舞伎の舞踊として、そして学問としての複雑さを生徒たちに伝え続けたいと考えている。翻訳であれ、動きであれ、声の抑揚であれ、歌舞伎を稽古する人々はやがて、歌舞伎の美しさは、どれほど精進しても芸を極めることができないところにあると気づく。学生たちは、その過程そのものが絶え間ない学びであることを理解しながら、少しずつ上達するよう努力し続けなければならないのだ。「歌舞伎には、完璧に到達するという境地はありません。歌舞伎の世界に60年身を置いていたとしても、まだまだ学び続けるのみなのです」。