高橋千秋さんは、父親が住職を務める東京都内の閑静な寺で育った。好奇心旺盛だった彼女は、時折追い払われながらも奥の部屋から父親の仕事ぶりを覗き込んだものだった。苦しんでいる人を慰め、導く父親の姿を見て、子供ながらに心が揺さぶられたという。
50代になった今でも、千秋さんは自分を形成した幼少期の体験を思い出す。そして彼女は、自分が親と同じように、人々が健康で幸せになるための手助けをしたいという思いを抱いていることに気づいた。
千秋さんは当初、ストレス性疾患の医学研究者としてこの思いを実現した。重要な仕事ではあったものの、時間が経つにつれて、この仕事への思い入れは薄れていったという。そんなある日、とりわけ長く大変な一日の終わりに晩酌をしていた千秋さんは閃いた。彼女が長年にわたる実験、データ解析、臨床試験で培った科学の専門性を、酒造りというまったく新しい分野で生かせるのではないかと思いついたのだ。
オアフ島で最後の酒造会社だったホノルル酒造が80年近い歴史に幕を下ろしてから30年以上が過ぎた2020年の春、千秋さんはハワイ唯一の酒蔵「アイランダー酒」をオープンした。長きにわたるハワイの酒の伝統と、ハワイと日本の文化的な深いつながりに注目した彼女は、日本酒を地元で愛される酒として再び定着させることに力を注ぐ。
日本酒の醸造は比較的シンプルなのだと、通訳を介して彼女は教えてくれた。日本酒は、米、麹、酵母、水というわずかな材料で造られる。その発酵工程は、温度や測定、監視が重要となるため、実験室での作業のように考える人も多いが、千秋さんとビジネスパートナーの弘瀬タマさんは、地元の文化のような目には見えない要素が味に影響を与えるという。
日本酒造りには麹や酵母といった生きた菌が使われているため、他の生き物と同様、環境の影響を受けやすい。「ハワイの人たちはリラックスしていますね。だから微生物もリラックスするのかもしれませんね」というタマさんの言葉に千秋さんはうなずく。彼女は、20代前半に初めて訪れて以来、その美しさと人々、のんびりとした暮らしに魅了され、ハワイを好きになった。
千秋さんの緻密で科学的な手法によってなのか、あるいは一本一本に込められたアロハスピリットによるものなのか、アイランダー酒のファンが着実に増えているのは、何かがうまくいっている証拠だ。純米吟醸、純米大吟醸、パイナップルやリリコイなどのトロピカルフルーツの風味が楽しめるハワイアンテイストの日本酒はどれも多くの人に喜ばれている。だがそれだけではない。千秋さんがハワイで日本酒リバイバルを起こしたいという思いの裏には、「人と人をつなげたい」という願いがある。
生産量の増加に伴い、最近、醸造所をカカアコからハワイ島に移すことになったが、タマさんと千秋さんは、オアフ島のコミュニティを離れるつもりはなかった。ビジネスパートナーの二人は、2022年2月、おまかせスタイルのレストラン「Hanale」をオープンした。この店名には、「友人とくつろげるこじんまりとした居心地の良い場所」をイメージした小粋な離れという意味が込められている。
ディナーの時間帯になると、ホノルルのチャイナタウンの通りから入ってくるゲストを弘瀬さんが温かく迎え、店内は和やかな雰囲気に包まれる。L字型のカウンターでは、シェフの大亀裕一さんが念入りに仕込みをしている。この店では、一品一品が次の料理への序曲となり、見た目にも美しいシンフォニーを奏でる。リボン状の胡瓜の上に光る新鮮な鯖の刺身、花形に大葉と盛り付けられた鱧、丹念な仕事が施されたイカ、霜降りの大トロといった料理は、どれもシンプルでありながら深い味わいだ。日本のミニマリズムを意識したシンプルさが素材の味を際立たせるのだと千秋さんは教えてくれた。日本酒と組み合わせれば、どの料理も一段とおいしさを増す。
次第に夜は更けていく。千秋さんは、暖簾の隙間から客たちの様子を観察する。楽しそうに笑ったり、グラスを鳴らし、周りのテーブルとの会話に興じている人たちもいれば、胃も心も満たされ静かに座っている人たちもいる。彼女は、以前携わっていた医学研究の世界から遠く離れ、母国から何千マイルもの距離にあるここハワイで、目の前に集まる人たちに微笑みかける。そこには、医学では到底かなわない、幸せがもたらす癒しの力が満ちている。