形を成す

C・W・ディッキー:王国や準州のルーツから
ハワイ州の様式を形作った建築家。

The architect's signature : "Dickey roofs" combine wide, shallow-pitched eaves with a steep upper roof designed to suit | Hawaii's tropical climate.
文:
ジャック・トゥルースデール
モデル:
ジョン・フック、マーク・クシミ

外に出て、屋根を見上げてほしい。ハレクラニホテルの屋根は、幅広い庇に向かってほぼ水平に傾斜を描き、棟に近づくほど急勾配になっている。そして、周囲を見渡せばハワイには傾斜が棟に向かって急になるこのような寄棟屋根が数多く存在することに気づくだろう。  「ディッキー・ルーフ」と呼ばれるこのデザインはハワイアン建築の代表格とされ、これを広めた建築家チャールズ・ウィリアム・ディッキー氏は、「ハワイらしさ」を特徴とする建築デザインの始祖として讃えられている。  ディッキー氏はホノルルの官公庁舎、教会、学校などの権威を象徴する建造物を設計し、ハワイで彼が目の当たりにした「東洋」と「西洋」の融合をデザインに反映しようと試みた。しかし、この頃にディッキー氏が生み出したスタイルは“ハワイらしい”と呼べるものではなく、ハワイが州となるかなり前、20世紀初頭にハワイが辿った歴史と変化しつつある社会の産物にすぎなかった。

 1926年、ディッキー氏はワイキキにある自宅やハレクラニホテルのバンガローコテージ(現在は取り壊されている)をはじめ、彼の象徴的な屋根を初めて採用した建物を数棟設計した。

「とてもハワイらしい建築に仕上がっていると思う」と、その年のホノルル・アドバタイザー紙の記事の中でディッキー氏は語っている。「コテージは景観によく溶け込んでいて、シンプルなデザインなので、屋根の個性が際立って見える」

 ハワイの茅葺き屋根から着想を得たともいわれているが、ある建築士は茅葺屋根は尖っているがディッキー氏のデザインする屋根はくぼんでいると指摘する。また、ワイキキにあるカメハメハ5世の家やディッキー氏の祖父がカウアイ島に建てたワイオリ・ミッション・ホールをモデルにしたとする説もある。いずれにしても、ディッキー氏はこの屋根を持つ建築を多く生み出したため、そのデザインは彼のトレードマークとなり、見る人はこのどこにでもある屋根をハワイ固有のものと見なすようになった。  禿げかかった頭に割れ顎と丸眼鏡のディッキー氏は単に、ハワイに来たばかりの人が住みやすい建物を設計していただけなのかもしれない。広い庇は雨から窓を守り、高い棟は蓄熱を防いでくれるからだ。

 例えば、彼が設計したオアフ島のクイーンズ・メディカル・センターのハークネスビルなどは、アーチ型のロッジアや淡い漆喰の壁、テラコッタの屋根といったカリフォルニアのスパニッシュ・ミッション様式を採用したもので、ハワイらしからぬ外観の建物である。このようにホノルルの建築環境にカリフォルニアの美学を取り入れたことは、建築史家のケレマ・リー・モーゼス氏が指摘するように、建築家とそのパトロンが「アメリカの人々にとってカリフォルニアの延長として捉えることのできる都市」にするために行った取り組みの一例と言えるかもしれない。

 チャールズ・ウィリアム・ディッキー氏は1871年、サンフランシスコの対岸にあるカリフォルニア州アラメダで生まれた。父のチャールズ・ヘンリー・ディッキーは南北戦争で戦い、祖父はエイブラハム・リンカーンの友人でもあった。母のアン・エリザベス・アレクサンダーはアメリカ人宣教師ウィリアム・P・アレクサンダーの娘で、彼女の兄弟たちはハワイのプランテーション実業家であった。兄サミュエルはアレクサンダー&ボールドウィン砂糖会社を共同設立し、妹エミリーは彼のビジネスパートナーのヘンリー・ボールドウィンと結婚した。(ディッキー氏の姉のベルは、後にパイナップルの実業家として有名なジェームス・ドラモンド・ドールと結婚)

 アメリカからハワイまで太平洋を横断する旅をディッキー氏は人生で数多く経験した。ディッキー氏が2歳の時、ハワイがまだ王国だった頃、一家はマウイ島に移った。父親はプランテーションストアを経営し、その後20年間にわたって成功を収めた。彼はハワイに電信と電話をもたらし、電信、鉄道、パイナップル、砂糖の会社を経営し、ハワイ州議会議員も務めた。一方、若き日のディッキー氏は、カリフォルニア州オークランドの高校を卒業した後、マサチューセッツ工科大学で建築を学び、1894年に卒業した。その翌年、ディッキー氏一家と同じ社会的地位にある実業家グループがクーデターでリリウオカラニ女王を失脚させた。

 このクーデターにより、白人実業家が支配する新しい共和制が誕生した。新しい支配者たちの未熟な国家には建物が必要であり、ディッキー氏の建築スタイルも同様に未熟であった。彼のデザインは後に風通しの良いラナイや中庭で知られるようになったが、プナホウ・スクールのパウアヒ・ホールやビショップ・エステート・ビルのような初期の建築は決して風通しが良いとは言えない、岩板から切り出された東海岸の大学の講堂のような重厚な建物だ。その後、ディッキー氏はイタリアルネッサンスの要素を取り入れ、トスカーナ式柱や花柄のファサードなど、現在もホノルルのダウンタウンに建つスタンゲンワルドビルのようなデザインに方向転換していった。

 ハワイで10年間を過ごした後、ディッキー氏はオークランドに戻り、その後20年間、建築事務所を経営した。その後もハワイで設計を続け、第一次世界大戦が終わると、ハワイに戻りたいという気持ちが強まった。ホノルルでの仕事が増えるにつれてハワイ出張が増え、やがて建築家のハート・ウッド氏と組んでホノルル事務所を開設。そして、二人は彼の叔父と義理の叔父が創業者であるアレキサンダー&ボールドウィン社の本社ビルの設計を手掛けることになった。この新しいチャンスに惹かれたディッキー氏は、オークランドの学校当局との争いに反発し、再びホノルルに戻ってきた。

 ディッキー氏がハワイの建築に大きな影響を与えたのは1926年の帰郷のときだった。彼はその頃ハワイに来たばかりで、のちにハワイにトロピカル・モダニズムをもたらした伝説的な建築家、ウラジミール・オシポフ氏を雇うことになったのだ。また、ディッキー氏のアソシエートであったハート・ウッド氏もその後、頭角を現すことになる。

 ディッキー氏とウッド氏は、アレキサンダー&ボールドウィンのプロジェクトをめぐるデザインの不一致により、結果的に袂を分かつこととなるが、このプロジェクトはディッキー氏とウッド氏の代表作のひとつであり、地方都市の建築様式を取り入れたものとして高く評価されている。1929年の竣工時、ディッキー氏は「ハワイの気候、環境、歴史、地理的な場所にふさわしい建物を作るよう努めた」と話している。

 この堂々とした建物は、製糖会社の中国人労働者をイメージした繊細な装飾が施されているが、基本的には西洋の建築様式が採用され、ディッキー氏の有名な屋根に独特のハワイらしさを与えたのと同じ不思議な魔力によって「ハワイアン建築」の代表格としての存在感を示している。ディッキー氏は王国や準州としてのハワイしか見ていないが、州としてのハワイの姿を形作ったともいえる。そこには100年前に島々に吹き荒れた変化の風が、コロニアル様式や地中海スタイルのファサード、広い軒や高い梁として今も残っている。

Shortly after relocating to Hawai‘i, Dickey designed an expansion for the Hawai‘i State Library, adding two new wings to form an open-air courtyard in the center.
ハワイに移って間もなく、ディッキー氏はハワイ州立図書館の拡張工事を手がけ、2つの新しい棟を設計し、中央にオープンエアの中庭を作った。