1928年、オレゴン州のポートランドからオアフ島へと到着したエル シー・ダスは、生い茂る緑と鮮やかな色彩に溢れた風景の中に足を踏み入れた。姉のエレンに会うためにハワイを訪れた旅は、25歳だった彼女の未来を変えることになる。ハワイに来る前、ダスはカリフォルニア大学バークレー校で美術を学んでいる。ハワイの自然の美しさと暮らしが、彼女の絵画やテキスタイルデザイン、版画や彫刻への情熱をより一層深め、創作の源であり続けた。それは、やがて彼女がこの島々を住まいとしてからも変わることはなかった。
色彩や構図のセンスに富んでいたダスは、まもなくするとエレンの夫であるゴビンドラム・ワトゥムルがホノルルで営む洋品店のウィンドウディスプレイを手がけるようになる。ワトゥムルの「イースト・インディア・ストア」は、アジアや環太平洋地域の品々と衣料を扱っていた。そして、当時流行の兆しが見えていたアロハウェアの販売で人気の小売店になることを目指していた。1936年、ワトゥムルは店で販売するためのハワイらしいプリント柄のデザイン15点をダスに依頼する。


この依頼は、のちに大きな影響力を持つことになる。ハイビスカス、月下美人、パンノキ、ジンジャーといった地元の植物を単色で描いたイラストは、絹や綿の生地に手描きされ、プリントのために日本へ送られ、アロハシャツなどの衣料に木版染めされた。競合他社が、伝統的な日本やアジア太平洋地域のモチーフ柄のアロハシャツを広告する中、ダスは島での生活からインスピレーションを得てプリント柄を生み出していた。その後、フラダンサー、熱帯魚、ヤシの木、ハワイのカパ(樹皮布)風のプリント柄などが続き、地元住民にとっては遊び心あふれる誇りの勲章、そして旅行者にとっては島でのひとときを物語る一枚へとなっていったのだ。
エルビス・プレスリーやフランク・シナトラ、そしてジョン・ウェインといったファッションに敏感な芸能人によって広まったアロハシャツは、大衆文化に定着していった。そのような状況の中、ダスは新たな表現方法に挑戦し続けた。京都では水墨画を学び、ホノルル・アカデミー・オブ・アーツでは陶芸のクラスを教え、ハワイの人々の肖像画を描き、第二次世界大戦中にはアメリカ陸軍工兵隊のために迷彩柄のデザインも手がける。戦争が終わると、型紙作りの技術を磨くため、聖地であるニューヨークに出かけた。また、ヨーロッパやインドにも旅をし、異国情緒あふれる天然素材の布地を収集した。
布地のプリント柄には、大胆なグラフィックと単色の背景を好んでいたダスだが、芸術作品においては文化的なテーマを探求する機会を享受していた。その一例が、1945年にホノルル・プリントメーカーズのギフトプリントのために制作依頼のあったリノカット版画の『シティ・アンド・カウンティ、ホノルル』である。この作品は、その細部の描写と奥行きにおいて独特の趣を醸し出している。戸外で働く、おしゃれな装いの地元女性の姿を描いた版画は、女性の肌の色が周囲の土の色を映し出している。「ダスは、彼女たちを『島の美女』という枠にはめるのではなく、大地を一生懸命に手入れする存在として描いています」とホノルル美術館で現代美術を担当するアソシエイトキュレーターのキャサリン・ラブさんは語る。「男性が戦争に駆り出されている中、ダスは彼女たちのハワイの公園や公共の場への献身を称えたのです」


1952年、ダスはホノルルに洋装店をオープンするという夢を実現する。東西の美意識が融合し、洗練されながらも控えめなダスのオリジナルのデザインには、オーガニックなニット素材が使われ、ゆったりとしたシルエットでハワイの熱帯気候に適ったものだった。彼女は、カジュアルでありながら品のあるムームー、宣教師の装いからヒントを得たハワイの伝統的な正装ドレスであるホロクのさまざまなバージョンを世に送り出し、ハワイのドレス文化をより幅広い層へと届けた。そのデザインには、インド風の曼荼羅模様やシーシャ刺繍といった南アジアからの影響が見受けられる。「エルシー・ダス」のブランドは、ハワイから大きく広がり、ワイキキでのファッションショーは完売となる盛況を見せた。地元やアメリカ本土の批評家たちを魅了し、デザインスクールが彼女のプリント柄を自校のテキスタイルコレクションに加えることにもなる。
「私は、服は着心地のよいものであるべきだと思っています」。1960年、ダスは地元紙『ホノルル・アドバタイザー』の記者ペギー・マッケンジーに語った。「体は自由に動けるべきです。画家が絵画の構図を決めるとき、意識的であれ無意識的であれ、絵画という枠組みの中で動きをコントロールしています。服も同じことなのです」


ダスは1962年にこの世を去る。享年59歳だった。しかし、彼女の芸術における足跡は今も色濃く残っている。「エルシー・ダスがいなければ、アロハウェアは存在しなかったと思います」と、ホノルル発祥のファッションブランド「ランゲージ・オブ・ザ・バーズ」の創設者兼クリエイティブディレクターのシア・カーソンさんは語る。「彼女は、モダニズムに根差したヨーロッパの造形へのアプローチと日本のテキスタイルの大きなスケール感やしなやかさを融合させました。地元の要素、スケール感、現代的なビジュアル言語といった、今日、私たちがハワイ柄と考えるものは、彼女のDNAによって形作られているのです。彼女は、当時の異なったデザイン思想を統合し、ハワイ柄の中に組み込んでいったのです」
トリ・リチャード、レイン・スプーナー、シグ・ゼーン、カハラ・スポーツウェアといった、ハワイのアロハウェアを長きに渡って世界に広めてきたブランドと同じように、カーソンさんも自身がデザインする現代的なムームーに、ダスの先駆的なプリント柄からインスピレーションを得ているという。「ハワイ柄がどうしてこれほどまでに洗練されているのか、いつも不思議に思っていました」と彼女は付け加える。「すべては、彼女から始まったんだと思います。彼女は真剣に向き合っていましたから」


